中原浩大さんの話を聞いてきた
中原浩大というアーティストは、今は知ってる人は90年代知ってる、知らない人は知らない人は余りしらないアーティストでなかろうか?と思います。レゴや、ラジコン、アニメのフィギュアをオブジェとして展示したみたいには、よく言われる方です。
12月 16日 (月)に、武蔵野美術大学 美術館ホールであった“中原浩大に聞いてみたいこと”の講義メモです。
この話題は、僕のリアルタイムに感じた話題も多いので、特別、美術に詳しい論評であるとは言い難いです。
僕自身、美術手帖や、みずゑなど、美術雑誌を、子供の頃から眺める習慣があったので、ヤン・フートがドクメンタで企画とか、川俣正がベネチアビエンナーレで若くして出たとか、戸谷成雄って人は雑誌の表紙になっていてとか、そういうことは80年代の小中学生のころ、なんとなく知っていて。小中学生の自分には、戸谷成雄や、川俣正という人は、当時の若くして優秀な方なんだなという印象が、多分あった。しかし、その現代美術という世界も特別大きな世界でもない想像もついた。
そういう自分の知識の下地があって、高校生の頃(1989~1992)ロバート・ゴーバー、ジェフ・クーンズや、マイク・ケリー、中原浩大あたりを、美術雑誌やテレビで知った頃、それまで自分が思っていた美術というものに、別のルールが加わったように感じて、新鮮で、違和感もあって、衝撃を感じた覚えがありました。それは、10代の若者が、ユースカルチャーに感化されるような感じでした。
中原浩大を、初めて知ったとき、レゴとかで美術の作品とか作るのはアリなのか?!少し前にNEOGIOという枠も知っていたので、その流れも思えば、いいのか?とか、中原浩大という人の作品、オモチャのような美術作品で知るけど、一寸前の美術雑誌のバックナンバーを探ると「光のミミズ」という大理石で抽象彫刻で美術品らしいものを作ってた方が、今はオモチャで美術作品を作る人がいると、、、そういうことに興味あった高校生の自分が、何か作ること描くことが自分の能力で比較的得意で、そういうことで活路を見いだせる進学を!と思って、ボンヤリ浪人して美大に進学してしまう。そういう美術が許されなさそうな美大進学は、正直、怖かったです。
中原浩大が使っていたナディアのフィギュアの同じ商品を、中原浩大を尊敬して、見つけて大事に僕も持っていたこともあったのですが、あるとき、中原浩大を尊敬しても、OTAKUのアートを尊重しすぎるのも良くないという気持ちが、僕の中に沸いてきて処分したこともありました。
講義を聴いてざっくりとした中原浩大の人生のタームでは
- 1983-1989 あたりのデビューから、関西の美術のニューウェーブみたいなところで、芸術の文法のマスター、ポンピドゥセンター「大地の魔術師」展や、ヤンフートの「オープン・マインド」展を見た衝撃
- 1990-1993 海外で見た展覧会の影響で、美術のプロでないような作品を考え、レゴやフィギュアなど、美術にしにくい素材を扱う。大学後輩のヤノベケンジの作品を模作。
- 1995- 芸術活動でないとするところの被災プロジェクト「カメパオプロジェクト」開始。2011年5月ごろ女川の幼稚園などでも活動する。
- 1995- 芸術活動は、時々コレクションで渡った作品が、美術館の企画常設展が時々あるものの、新規作品で企画展という体裁は、時々。重力体験の研究、つばめの生態を追った記録などしたあと、お子さんが生まれて
- 2010 火災でアトリエが全焼、初期作品、重要作品なども燃える。その後、ギャラリーαMでの中原浩大を中心とした関連企画「変成態」や、大規模な個展として伊丹市美術館の「コーちゃんは、ゴギガ?(2012)」岡山県立美術館「中原浩大 自己模倣(2013)」
という流れ。
「大地の魔術師」展や、ヤン・フートの「オープン・マインド」展が相当ショッキングだったようで、それまで目指していた芸術的に見える質から、素人芸に見えるような、アートを感じる完成度から逸脱した物が、よりアートらしく感じてしまうエントロピーみたいな物にのめり込んでいったらしく、そこで扱ったプラモデルは、自分が子供の頃興味あった「アポロ・イーグル号」のプラモでもなく、美少女フィギュア、親しんだダイヤブロックでなくレゴ。なんか、そういう、大好きな物、興味ある物より、自分が余り通過しなかった事柄を、ちょっとネタっぽく拾って、そういう事柄や物事にまみれて幸せという動機だったそうです。そういう制作方法も、学校後輩のヤノベケンジの模作をすることで、より素人として創作することで、自分の創作意欲が満足して切りがついたとのこと
作品そのものも、「展覧会」というより「催し」のようなもの。鑑賞しやすい創作物というより、職人的な道具づくりとか、研究者のような記録づくりとか。独創的な創作より、作り方があるものや、模作など。
そういう本人自身は、より美術の世界から作品を遠くずれさせれば、させるほど、観客からは美術の世界が深化して見えてしまうことが起きた。
そういうとき、ぼんやりと僕が思ったのは、立川談志の話で、芸でも「型なし」と「型破り」という概念を言っていたそうです(注1)。「型なし」というのは素人芸、ちょっと面白い人みたいな話しぶりや技術で、「型破り」というのは、一種の話芸などの形式を覚えて、それに応用を利かせたり、形式を踏み外していくような技術を言うそうで、中原浩大の1989年以降というのは、より素人としてみられたいと美術の「型なし」ということを進めたいと思うものの、周辺の作品を見てる人からは、美術の「型やぶり」に見えてしまうというギャップが起きていて、それが全然解消されないまま現在に至っていること。それはとても空虚な印象も受ける。
また、自分が、子供時代に余り体験しなかったようなことを追体験するような、オモチャの遊び方や、動物の観察というのは、どこか、ロベルト・ロッセリーニの映画「ドイツ零年」のエンディングで、過酷な状況におかれた子供が、最後に、子供らしい遊びをしてる風景も連想しました。中原浩大にとって、興味あったけど出来なかったこと、持っていたけど無くなった物への執着は興味深いところがあります。センチメント。
今にして思うのは、アニメやプラモなど当時の判断つけずらいものの芸術としての判例がでたから、芸術文脈を押さえればアニメやプラモも芸術としてOK!という話ではなく。それぞれが何となく興味もって見過ごしてきた事柄を追体験して創作や観測の拡張をするということだったように思う。なので、なんとなく追体験したい、美術とか自分のフィールドに取り込みたいが取り込みがたい事柄、自分の専門外の事柄や、自分の文化階層と違う素人芸のようなものの嗜み、年代が合わない文化との触れ合いとか、それだけ美術の世界に技法と作法のコード化が進んだり、諸ジャンルの分業化や階層化が進んだ結果でもある。そこで狭まった美術のコードを広げるために、中原浩大にとっては、レゴや、ラジコン、フィギュアのようなものが必要だった。しかし、そういう目的をもっても、別の人にとっては、レゴや、ラジコン、フィギュアがまた必要という訳もなく、他の人によっては美術と他の何か?茶道でも、盆栽でも、盆踊りとか、おかんアートとか、SNSサービスとか、方程式の係数のように色んな物が代入されて、結果的に解が芸術として成り立つ、方程式やコードのようなものを、その人なりに組み立てれば良いように思う。そういう提案として、中原浩大の作品が機能したというか、提案されたのでしょう。
中原浩大にとって2000年代というものは、育児で感じることや体験が大きかったようです。
「カメパオプロジェクト」開始は淡路阪神大震災があってから、伊丹市美術館の「コーちゃんは、ゴギガ?(2012)」岡山県立美術館「中原浩大 自己模倣(2013)」 など規模が大きな展覧会というのは、2010年のアトリエが全焼があってから、中原浩大にとって被災と創作というのは何かしら関係があるのかな?と思いました。
中原浩大のお話するところは、初めて見たのですが、「誘い受け」の印象も伺っていて感じるところもあり。多分、自発的な展覧会制作や就職勤務というわけでなく、推薦や誘われて受けた案件も多そうだし、美大勤務で仕事になる。美大勤務によってアーティストで居られるとか、そういう空虚さも何か感じました。
2000年代以降というのは、多分、創作みたいなことには興味があるけど、美術の世界の作品、例えば、今の作品、昔の作品、未来の作品、外国の作品、日本の作品に興味がない、ひょっとしたら自分自身にも興味がないかもしれないけど、多少やりたいことがある姿のように感じました。しかし、そこで慕う若いアーティストが居たり、美術館やギャラリーのオーダーがあって受けてしまう環境がある。というところで、本人の自意識と、周辺の見られ方にギャップがあって、その現象を拡大解釈すれば、日本美術史に参加してないと自覚する中原浩大と、日本美術史を中原浩大が作ってると感じる観客が居て、そんなギャップが、日本に美術というものが成立してるの?という問に繋がって、面白くも、面倒くさくも感じてしまう。
今、中原浩大の作品を読み直すなら、キヤノンのアートラボで行った「デートマシン」など、90年代に、中原浩大の恋人や家族、冠婚葬祭の仕組みを扱った作品が幾つか有り、その延長で、中原さん自身の家庭環境も変わってそうだし、冠婚葬祭産業、日本の家族や社会や国家の仕組みや形式も、90年代以降と比べれば可成り変わってきた気がするし、そういうことを織り込んで新規の中原浩大の作品が出来ても面白そうだし、中原浩大の創作意欲を思えば、誰か他の中原浩大を好きそう方が、そんな感じの作品を作っても面白いかなと想像しました。
その場で、サラッと伺った戸谷成雄さんの中原浩大についての話題では、宮川淳が20世紀半ばに、「芸術の用途の無さが芸術の可能性を引き延ばす(やまうち意訳)」といったことを言われていて、戸谷さんが見る今の若い人の可能性の中間に、中原浩大を見いだすようには、戸谷さんの考えで言われていました。
この話題、僕は少し違和感を感じました。デュシャンの発想にもかかるもので、デュシャンの発想の有効期限って、もう来ている気がするし、50年、100年したらデュシャンの技法を使った芸術の実効性が消えるのでは?感じていて、しかし、そういう美術の歴史があったよという教育の必要性は感じています。結果として今、デュシャンに絡む現代アートの技法は、今の茶道における千利休のような、小さな規模の話題として伝わって行く気がします。それで今後の中原浩大の作品の見られ方は?というと、90年代の日本の美術の風景と感じる歴史的な物として扱われるけど、今後のアーティストが創作したり、文筆の方が題材にするアクチュアルな題材とするのは、少し難しくなってきているようにも感じました。
戸谷成雄さんの宮川淳の話題は、僕もどの本のどのようなコメントか?特定は出来ていませんが、デュシャンの話題でもなく、新規事業としてニーズのないと感じられるものに、ニーズを作り出すといった話題だとすれば、それはそれで理解できます。
妄想だけど、斎藤環さんと、中原浩大の対談企画ってものが、あったとすれば、だいたいの美術の人が関心を持つ中原浩大の話題の論点が、まとまる気がする。中原浩大の話題は、観客がカウンセラー化して、アーティストが患者のようになるところで成立しているのかもな?とも、思いました。
今にして僕が感じるのは、中原浩大の作品の空虚さと、空虚の埋め方というのは、中原浩大の作品特徴をさす大きなポイントになっていて、日本のある時代と地域の文化の特徴や、美術の歴史の分岐点として、魅力的に感じる部分もあります。しかし、現在のあらゆる災害や不景気など要因に、社会環境の現在の変化していく様に対して、これからの時代に何か訴える要因というものを考えると、少しナイーブ過ぎる気もして何か難しいものとも感じました。昔の自分は、アート言う技法や作法を使うことが、何かの免罪符になると感じる時もありましたが、アートの免罪符というものは時と場合と使い方によるというふうに考えように自分も変わってきました。
注1 赤めだか 立川 談春
参考
対談「中原浩大 × 関口敦仁」その1:『中原浩大 自己模倣』展(岡山県立美術館)
対談「中原浩大 × 関口敦仁」その2:京都にて