展覧会「くるみの部屋」についてガイドライン
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展覧会「くるみの部屋」について。(APMoA Project, ARCH vol. 9 山内崇嗣 「くるみの部屋」2014/4/17-6/8 @ 愛知県美術館)
展覧会「くるみの部屋」とは、胡桃にまつわる、自然、製造業、愛知県の地域についての調査と記述の発表です。
胡桃のようなありふれたものでも、いろんな知恵や話題ががあり、僕自身の知的な研究の研究でもあります。
胡桃についての話題と、研究の研究ついてが大きなテーマです。
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この展覧会は、胡桃にまつわる、環境や暮しについての記録です。胡桃と何がか、似てる似てないとか。胡桃が何かに、関係あることないことを見せます。
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現代は、あらゆる物事が分業化しています。食べ物、暮らし、美術作品の制作技法や作法も、そのような分業の一端を担ってるに過ぎません。身近に接する物事も、餃子や、鉄筋コンクリートのように、色んなものが混ぜ合わされた結果、何が含まれたり足りなくて危険か?ということは気にしても、それがどの様に作られ、どのように届けられているか?今の私たちの暮らしでは注意を寄せにくい社会だと考えます。それは少し危険なこととも考えています。今回の展示は、身近な雑木、くるみの木について自分が調べていくことで、生態系、暮らし、地域といろんな物事が見えてきました。今回の展示は、自分のレポートと、それを伝える記述が、自分の創作や作品として考えています。
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何故、くるみの木に、関心を持ったか?というと明快な理由はありません。しかし、自分の住んでいる地域で身近に観察しやすかったこと、冬芽という形に興味を持ち、四季など地域の風土を感じること。また、自分にとっては、とりあえずという形で、くるみの木について調べてゆくと、想像以上に色んな世界観が見えてきたことが自分にはおもしろく、くるみを通して知る世界観が、自分の世界と、自分の居ない場所や時代に繋がる価値に繋がるように思えたことが、自分には大事なことに思えたからです。
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くるみの木は、長野や東北地方に、多く生えていますが、日本の国内であれば川沿いに見かけることが多い木です。自分は、自宅近くの多摩川でよく観察しています。
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くるみの木には、オニグルミ、サワグルミ、ヒメグルミ、ノグルミ、カシグルミ、ヒメグルミ、テウチグルミ、ブラックウォールナット、ペカン、ヒッコリーなど種類があります。
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モンシロチョウの幼虫がキャベツの葉を食べるように、昆虫と植物には、食草・食樹という関係があり、この植物には此の虫がいるという関係があり、くるみの木には、クルミハムシ、オニグルミノキモンカミキリなど、くるみの名前がつく虫も居ます。またクルミハムシは、カメノコテンコウに食べられやすく、クルミハムシの居るところ、カメノコテントウも探しやすいそうです。
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くるみの実は、リスも好んで食べます。くるみの殻を囓ったあとを見分けることで、どのくらいの大きさのリスが生息しているか調べられるようです。
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カラスも、くるみの実を食べます。とても高いところから落としたり、車のタイヤに轢かせるなど、色んな工夫をして、実を食べます。
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くるみの材木や樹皮は、道具になります。胚乳から採れる油は天然塗料として使われます。果皮は天然染料の素材になります。ホダキはなめこなどキノコの生産に使われ。変わったところでは、くるみの殻はスタッドレスタイヤの滑り止めとして使われるそうです。
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くるみの実(胚乳)は、食品やお菓子の材料に、使われ、くるみパンや、くるみ味噌、まめぶ汁、ゆべしや和菓子など、幅広く使われています。
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今回、木工品について調べていて、滋賀県の川端健夫さんにお皿を用意して頂きました。手工芸の工芸品について考えたとき、機械で作られた大量生産品に比べて、人の手を通して出来た微妙な歪みが美しい物と考えて、川端さんのお皿は、機械轆轤を使った機械の形と、手で薄く掘ったノミの痕の調和が美しく思いました
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エネルギーについて思ったとき、これからの石油価格の高騰と、日本の森林資源の豊かさを思うと、製材所から出る木屑、間伐材ででる材木、バイオマスなど、燃料資源とする仕組みが、生活の保険として、緩やかに普及すれば良いなと思います。
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製造業。道具や作品や商品をつくる仕事もいいます。大規模であれ小規模であれ、日本の製造業について思うとき、それぞれの今の立場から更に活動の可能性を広げたいと思ったら、その方や団体の持つ資産のうちで、豊かに完結するモノづくりをを考えるか?設備投資や資源を銀行や未来から借り入れによって考える方法があります。
今現在の日本の製造業やモノづくりについて、すこしでも自分が考えた時、外貨の安い国の企業の買収や、アウトソーシングが進み国内雇用需要の空洞化しました。何かを売る人や会社を経営する人が暮らせても、生産者にする手当は低い、または、作り手や労働者が居なくなる世の中です。
また、教育や、技術者・職人育成などについて考えた時、大きな会社は労働力の安い国の労働者によってアウトソーシングとか、顧客も大きな額の商品を買わない世の中になると、技術者は高度な技法や素材に触れる経験は減り技術は衰えやすい。技術者は技術者で部分的な外注もかけにくくなる。
そのような環境のもとでは、技術者は、短時間で、安価な素材で、少ない工程で自己完結できるような意匠や技術を確立する必要もあるし。
顧客は顧客で、国内で作られる家内制手工業のような小規模な商品/作品には、新興国の商品より高額であっても、品物を買う理解も必要と考えます。
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今回の展覧会は県立美術館での企画展という体裁もあり、山内崇嗣の作品として紹介したいというより、愛知県の方達に向けて自分たちの見慣れた郷土について愛着をもって再発見するような話題や事柄を用意できるように考えました。
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名古屋の、くるみを使った食べ物を探して食べました。愛知県美術館付近にあるパン屋ブランパン(アナナス)さんで作っている「ブルーチーズと くるみ 蜂蜜ヴァイツェン」は、とても美味しいなと思いました。
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以上の話題をまとめる形で全ての作品に、くるみに関わりあるものというポイントを押さえて作品制作を留意しました。媒体として、油絵、掛軸、陶芸、レポートドキュメント、オーダーした工芸品、標本などあります。
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くるみの発想ありきで、美術展より、少し大きな枠組を想定し博物展の枠組みに近いかも知れません。ヴンダーカマー(驚異の部屋)。
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日本の美術というものをイメージして、記述方法として、国粋的な技法、洋風的な技法、大衆的な技法、現代アートの技法が折衷する作品の作り方を演算するように記述しました。
例えば、7m程度の大型の油絵は、八枚のパネルを使い八曲一双の屏風の造りに近づけたり。
掛け軸は、木炭の陰影描写技法や、蛍光色のパステル、オニグルミの果肉から取った染料など使いました。掛け軸の表装は自分にも未知の世界で、吉橋完光堂という表装屋さんで技法や素材の指導を受けて、小津和紙で小川細川和紙という楮の和紙を求め、田中直染料店で染料について調べ、オニグルミの果肉が染料になることを知りました。
陶芸作品は、彫刻的なものもあれば、安価なお土産もののようなものを作ったり、
民画のような簡単にみえる描き方の絵を、絵画のように展示するとか、
美術の色んな技法と作法が交差する作品の作り方や展示の仕方で、そのように作品を作りたいなと思ったのは、くるみに対しての関心は勿論、日本の芸術には元々は無かった、技法、画題、画材を、輸入して、折衷し、輸出するのが、日本美術であるならば、そのような技法や作法も、自分の制作プロセスに組み込んで制作したいと思ったからです。そういう制作イメージ、プロセスイメージに、なるべく沿うように、作品制作をしました。
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敷地があって、何かの施設をつくるとする。その敷地で、住むとか、何かを作るとか、売るとか、管理する、行事をする、収めるとか、そういう役割要素を組合わせることで、住居や、田畑や、病院や、お店や、役場や、神社や、図書館や、博物館や、美術館とか、その場所の機能が決まる。また、その場所が、私有地なのか、借地なのか、元々の地域の特徴がある場所なのかで、仮設とか常設とか施設の特徴が決まってくる。
絵というのも、技法として、敷地のように余白があり、文字や、図形、マテリアル、何かの集積、行為の痕跡、宣伝、物語とか、そういう要素が、余白の中でどのくらい占めるか?ということで伝えたい用途が変わってきて、場合によっては美術的なタブローや絵画として、成り立つことがあります。
芸術には、技法と作法というものがある。任意の組織や空間で、作品に見立てなどの作法を使えば、芸術的でないものも芸術として扱われることもある。逆に、いくら技法的に優れた芸術技法が使われた作品でも、それを扱う組織や空間によっては芸術にならないこともある。
そういった作品の、技法の選択と、作法の諸条件によって、作品の芸術性や特徴の作り方は変わってくる。
芸術が成り立たない場所の創作物や、人のあいだにある絵というものが、必ずしも良くないものと思いません。違う魅力の場所にあるものと考えます。
世の中には、良い絵と悪い絵があるとは思いません。関心ある絵と、苦手な絵と、興味が無い絵があります。
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絵というものは、そういった何かのアーカイブである。
自分が絵を描くとき、絵の技法と作法のバランス操作をすれば、色んな絵描き方ができるということを伝えたいとは考えていません。芸術的な絵を成立させるには、諸要素のバランスで怪しいところでしか成り立たないことが面白いなと思って制作していて、そういうことを伝えたいなと思っています。
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デッサンなど陰影描写は、人間らしく、ものらしく、形を描くことを基本とされる。
似顔絵や博物画は、その人らしく、そのモチーフらしく、特徴を描くことを基本とされる。
この2つの見え方には、ズレが有り。ズレながら統合しそうな描写法もあれば、一つの見え方や描き方を特化させて、他方を無視する描写方法があります。
この2つの見え方は一致しない。しかし、記述する人が見ている像は常に一つであります。見ている一つの像を一つの描き方で捉えることはできません。
その点で、具体的に描く方法は存在せず、あらゆる描写記述は抽象的なものであります。
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文筆者が文章を書くとき、この作者につき、この文体、この内容、この話題というものが一致したほうが、その作家が何者なのか?その作家が何を伝えたいか?ということは、容易に伝わりやすくはなります。
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今回の展示での作品群は、作者ありきで様々な作品を作ったというよりは、地域や自然や暮らしについての取り上げたい話題、表装や陶芸など習得したい技法など、幾つか自分の持ち合わす事柄よりも、優先したい未知の事柄があって、それを取り込むことで、自分の作品の文体のようなものは、バラバラになってしまいました。
自分がアーティストとして自分の話題を伝えたいということは、余り考えませんでした。
その時、この展覧会をするにあたり、自分がくるみの木であったとしたら、回想するだろう話題を見えるように努めました。人間に、このように見られたり使われてきた、どんな場所に生えてきた、どんな生き物が寄ってきたとか。自分が、くるみの木であると思い込むことで、いろんな話題、いろんな技法を、取り込めると思いました。
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博物館や美術館は、歴史や主題や地域など様々なテーマで、収蔵品の公共性や必要性を高める施設としてあります。
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僕自身は、何かに関心を持つ人の考え方を学ぶために、切手収集と、鉄道趣味から学びました。
切手収集というのは、基本、収集しやすく、自分の関心と切手カタログを参照し、自分のコレクションを購入して構築します。
鉄道趣味というのは、基本的に車両そのものの収集は難しいですが、鉄道に付随したもの、例えば、旅行、時刻表、模型、記録、関連物の収集などおこないます。
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そこで観客が行うこととは、観客自身の関心が、その他の観客にあまり見られない、対象への尊敬をもって、ユニークで専門的な技術や発想やテーマを作り出したり、一般的には関係なさそうに感じる物を結びつけて魅力的な見方を作り出すことをする。ユニークな観客は、他の観客からも、尊敬される。美術館や博物館の発想のルーツも、15世紀ぐらいウンダーガマー(驚異の部屋)と呼ばれたヨーロッパの数寄物の収集部屋の文化から始まるとされますが、そちらでも、そのような精神はあったでしょう。
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展覧会づくり、収蔵施設づくりも、近いことがいえる。作品や、何かの研究や記録があって、それが個人の技術や発想ってだけでなく、話題が共有化・公共化されることで何かしらの価値が出来てくる。作品は一人で出来ても、美術品は一人で作ることは出来ません。美術品の作り方も手順や方法が色々があります。
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今回の展覧会は、美術館で、胡桃をテーマに、暮らしや、地域や、自然の話題を結びつけたり、此処の話題の情報量や深さを、斬新な展覧会の造りにしたいとは考えました。
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この展覧会は、様々な発想を結んで、ある発想の効果を産んで見えるような展覧会を考えました。暮らし、自然、地域、美術、色々協力や相談をした方々がいて、それぞれの方に専門分野があり、一般的な認識とずれることがある。
例えば、木工の世界では日本家屋建築の工法と、椅子や机の文化が輸入されてからの発想や工法のズレあるのか?とか、生物多様性のある里山づくりを考えて、どういう範囲で多様にするのか、もともとその地域に無かった動植物を含めるか?とか、高等教育までの教育美術と現代アートの違いがあるのか?とか、個人的な創作であって人に見せるものではないとか
それぞれの方の前提的な考え方と、一般的な発想や気持ちの違いやズレみたいなものがあって、そういうことをどうやって結んでいくと、それぞれの方に良しとしつつ、観覧者の方に面白く見えるか?考えるところでした。
今の世の中では、素材、レシピ、発想、労働力など複合的に行われることが多く、それが環境や作品や商品など面白い効果を産むこともあれば、問題が起きれば責任や問題の関係が問われる。複合的な関係やプロセスが必ずしも悪いとは思わないけど、複合的な効果からユニークな効果を作り、問題は起きないようにするには、純粋な効果や関係性を読み取ったり汲み取る必要はある程度あると考えていて、この展覧会に出てくる要素は比較的、純粋な効果の流れをある程度、明快に見せられるようにしたいなと考えました。
この展覧会は、技術的に苦心した作品もあれば、発想を伝えたいために簡単に作られた作品もあります。いわるゆ美術館体験として、すばらしい作品を美術館で見るということだけなく、すばらしい動植物や、暮らしというものは、美術館で見たり過ごせるものでもないので、展示をご覧になられて、こういうものもあるものか?!と、思われて、いろんな豊かさを、帰宅されてから最寄りの地域から何かを見つけられるような補助をするような展覧会づくりが出来ないものかな?と思いました。
これから世界の人口が減る未来だとして、今の人が未来の人に借り入れる資源が多すぎると思います。もうちょっと身近にある資源について価値を見出す必要があると考えます。ここでいう資源というのは、経済だけでなく、時間とか、技術とか、情報とか、エネルギーや、環境とか、人とか、物なども含めて考えます。
アウトソーシングが必ずしも良くないとも思いません。自分は、この展覧会は、愛知県から受けた仕事ではありますが、愛知県に住んだことはあっても、深い縁は有りません。しかし、地元の方にある程度、満足いくように働きかけはできるだけ努めてきました。
そういうところで、供給が安定したもの、比較的身近なもの、見過ごしてしまいがちなものに価値を見出すとか、そういう見出し方について考えて、この展覧会を構想しました。
元々この展覧会の構想というものは、大震災がおきて、東北のことや、原発のことを美術の作品として構想を練って作品化するアイディアを組み立てることを考えました。しかし、それを自分の美術作品として作るには可成り難しく、そう言った面では失敗したと思います。しかし、原発がもたらす影響や関係性は想像以上に大きく感じたことから、なんとなく見過ごしている物事にも大きな可能性や関係性を見いだせるはずと、思って調べて制作した成果でもあります。
今回の展示を制作し、日本の国土や文化を守るという意味で、何に関心を持つべきか?と思うと、東北の動植物環境、農業、水産については、今も苦労されてる方々のことも想像しつつ、放射能汚染など難しいものと考えがちで、東北にまつわる、レシピ、様式、話、歌、情報のような発想や技法のような文化関心を持ってゆきたい自分の長期的な課題は見えました。
私たちの周りには、良い悪いではなく、このような世界が豊かに広がっているということを、伝える展覧会を作りたいと考えました。
それは、身近なことで完結する暮らしが我々の暮らしの基本で、物事の基礎や、関係性が見えづらい社会にいると感じるので、くるみの木のような、とてもありふれてると思うものから、いろんな話題を引き出してみたいと思ったからです。
経済価値を当てにくい埋蔵資源のようなものは、現行の仕組みに共存すれば、少しは窮屈でない世の中が来るように思います。